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きっと復興を遂げるであろう故郷で、個展が開ける日が来ることを信じて。 志田 信一 Shida Shinichi

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写真を撮るようになったのは、高校生になってからのことです。私は早くに父を病気で亡くし、母との二人暮らしでしたから、生活は決して裕福ではありませんでした。テレビを買ったのも、私が働き出してからのこと。しかし、カメラは高校の入学祝いにと親戚からプレゼントされたもので、私にとっては何よりの宝物でした。

社会人になってから、いよいよ本格的に写真を撮るようになりました。そして多くの写真コンテストに応募し入賞するようになりました。亡くなった父が船乗りだったこと、近所に漁港があったこともあって、いつしか私は海の男たちにすっかり魅せられていました。都会では80歳というと、かなり高齢のイメージがあるかも知れませんが、漁師たちは80歳でも漁に出ます。しかも、そのときの表情が生き生きとしている。私はそんな彼らに引き寄せられるようにして、仕事が休みになるとカメラを持ち出し、漁師たちの姿を撮るようになりました。そしていつかこの土地で、海の男たちの顔でいっぱいに埋め尽くした写真展を開くことを夢見るようになったのです。

しかし震災によって、私の夢は一度ついえました。それというのも、カメラも写真も、そして故郷も、津波によって流されてしまったからです。

津波に恨み辛みは言わない

私は震災があった日にはたまたま東京におりました。自宅のある陸前高田にいる妻や、自宅から出勤していた娘となかなか連絡が取れず、気が気ではありませんでした。幸いにもその夜、妻の無事と、家も津波に流されずに残っているとの連絡を甥からもらい、後から娘の無事も確認できました。ただ、東京から自宅に戻るのが大変でした。

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震災により鉄道も不通、道路もあちこちで通行止め。挙げ句の果てにはガソリンの入手もままならないという状態で、結局、車で自宅にたどり着いたのは震災から8日目のことでした。そして自宅と地域の惨状を目の当たりにして、私は涙ひとつこぼれず、ただ唖然とするばかりでした。

津波をかぶったわが家は、家財道具が一切合切流され、自宅に流れこんでいるのは泥をかぶったよその家のものばかり。津波のすさまじさを痛感しました。しかし、あらゆるものが瓦礫と化してしまったなかから、妻が偶然にも私の大事にしていた泥だらけになったカメラと写真やフィルムの一部を見つけ出してくれていました。そして娘が「お父さんが大切にしていたものだから」と、捨てずにとっておいてくれたのです。さらに2か月後には、私の大事な作品やネガ・ポジが入った泥だらけの段ボール箱を、「志田さんのものだろうと思って」と見つけた人が届けてくれました。

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今回の写真は、こうした経緯をたどり日の目を見ることになったものです。そして、写真展を開いて私の写真を多くの人たちに見てもらいたいというこれまでの夢が、図らずも形を変えて実現されました。津波に遭遇したことはとてもつらく悲しい出来事ではありますが、恨み辛みはいいません。すべてを受け入れ、立ち直って前向きに生きるこの土地の人たちの姿は、まさに私が撮り続けてきた、自然と共に生きる海の男たちの姿そのもの。私はそうした光景を見る度に、津波で流されてしまった多くの写真に負けないものを撮りため、きっと復興を成し遂げるであろうこの故郷で、いつか個展を開きたいと夢をふくらませています。

志田 信一 (しだ・しんいち)

志田 信一

1947年生まれ。元・陸前高田市消防署長。すでに職を退いていたとはいえ、多くの命を守れなかったことに心を痛め、当初は作品の提供を勧められた際も拒否し続けた。しかし、震災前の故郷の様子を生き生きと伝える写真が、地元の人たちを勇気づけることを知った。地域に根差し復興に取り組む。