セミナー報告「フォトジャーナリストが伝える世界」対談:林典子×長友佐波子

「フォトジャーナリストが伝える世界 」林典子

2015年2月8日 千代田区立日比谷図書館ホール

今、世界が激しく変動しています。テレビ、新聞、SNSから情報が溢れています。このような状況の中で、現実に起きている事実を世の中に伝えたいと、キルギスやパキスタンなどで取材を続け、名取洋之助写真賞をしたフォトジャーナリスト・林典子さんがいます。どのような視線で写真を撮り続けているのか、スライド上映と週刊朝日編集長・長友佐波子さんとの対談によるセミナーを実施しました。

第一部では、「一枚の写真に込める思い」をテーマに、林典子さんがフォトジャーナリストの道を歩むきっかけになった西アフリカのガンビアにある独立系新聞社で働いた体験に始まり、これまでに発表した作品によるスライドショーが行われました。

第二部では、『週刊朝日』編集長の長友佐波子さんとの対談形式のトークセッションが行われました。

今回は、第二部での林さんと長友さんのトークセッションの内容を掲載します。

<林典子プロフィール>

hayashi_norikoフォトジャーナリスト。1983年生まれ。大学在学中に西アフリカ・ガンビア共和国の新聞社で写真を撮り始める。以来、国内外で取材を続け、2011年には名取洋之助写真賞を、13年にはフランス世界報道写真祭Visa pour l’Image(ビザ・プール・リマージュ)報道写真特集部門で最高賞、14年全米報道写真家協会現代社会問題部門1位を受賞する。著書に『フォト・ドキュメンタリー人間の尊厳』(岩波新書)、写真集『キルギスの誘拐結婚』(日経ナショナル ジオグラフィック社)

<長友佐波子プロフィール>

nagatomo_sawako1965年、埼玉県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科を卒業後、1988年に朝日新聞社に入社。秋田支局、千葉支局、東京本社での勤務を経て1995年『AERA』編集部へ。『AERA』副編集長、東京本社写真部次長などを経て2013年10月より『週刊朝日』編集長。2011年10月~13年3月テレビ朝日「やじうまテレビ!」金曜レギュラーコメンテーター 著書に『あたらしい愛のかたち』(共著、講談社)、『ハッピーシングル宣言!』(電子書籍、朝日新聞出版)、編書に『アエラセックスリポート』(朝日新聞出版)

取材テーマをどう選ぶか

週刊朝日編集長・長友佐波子さん

長友佐波子さん

長友 林さんのお話を伺い、写真部のデスクとしていろいろな写真を見てきた立場からすると、なんと手間と暇と時間をかけたたいへんな取材であったことか、と。大学で国際紛争学を学んでいたのでご自分の中でたくさんテーマがおありと思いますが、今までどうやって取材テーマを決めこられたんですか?

フォトジャーナリスト・林典子さん

林典子さん

 キルギスの誘拐花嫁については、大学生の時に本で知ったのがスタートです。実はキルギスにいる時に、別の取材もしています。ソビエト時代にウランを採掘していた地域で、今、健康被害が起きている。現地の人からその話を聞いて、へぇと思って行ってみました。そういうケースもあります。
長友 あまたあるテーマの中から「これだ」と絞り込む作業も、重要ではないかと思います。今は、個人的な興味で場所やテーマを選んでいる感じですよね。
 そうですね。個人的に知りたいところ、知りたいことで取材に行く。最初から情報があるわけではないので、取材の過程でもっとその問題を知るようになり、直面している人と一緒に生活すればするほど、こういうやり方で取材を進めていかなくてはいけないという具体的なやり方が見えてきます。その繰り返しの中で、これはきちんと伝えなくてはいけないという気持ちが強くなる。
パキスタンの硫酸被害の女性パキスタンの硫酸被害の女性も、現地で暮らして個人的に深くかかわる中で、彼女たちがどういう思いで暮らしているのか、すごく感じるようになりました。一緒に町を歩いていて、男の子たちが寄ってきて「顔がヘン」とか言ってきたら、彼女から手を握られた。それほど傷ついているのに、カメラで写真を撮られることを受けいれてくれているわけです。その気持ちを大事にして、彼女たちのことをちゃんとした形で伝えなくてはいけないなという思いが、取材の中でどんどん強くなっていくような気がします。
長友 たとえば東南アジアのいろいろな国でHIVの母子感染の問題があると思いますが、そのなかでカンボジアを選んだのはなぜだったんですか?
 当時、HIVの感染者が人口比で一番多いのがカンボジアだったので。あと、その時期にたまたまカンボジアでアンコールフォトフェスティバルという写真のフェスティバルがあり、参加する予定もありました。おかげでけっこう長く、余裕を持って滞在することができました。

取材対象との距離感

長友 その国に入ってから具体的にこの被写体でいこうと収斂していくまでに、かなり準備期間が長くかかりますか?
 ボンヘイの場合は、会ったのはカンボジアに着いて一週間後くらいです。HIVに取り組んでいる現地のNPOのスタッフがボンヘイのお母さんを訪ねる時に、同行させてもらって。お母さんから話を聞いて、確かに聾唖のHIVの患者もいるだろうなと、その時初めて気がついた。そういう患者に、HIV に関する知識をどうやって伝えるのかが気になって。彼はどういうふうにHIVと向き合っているのか知りたいと思い、出会った次の日から取材を始めました。
長友 ボンヘイとお母さんとおばあちゃんが、蚊帳の中で川の字で寝ている写真がありましたね。あれは月光が光源ですか?
 いえ、豆電球があって、最後にボンヘイがプチッと消す。その前の瞬間の写真です。
長友 先ほど、最初のうちはカメラを持たない。ある程度距離がつまってからカメラを出すとおっしゃっていましたが、寝るところまで撮ることを許してもらえるには、けっこう時間かかりそうな気がします。でもあの写真は1週間で撮られているんですよね。
 はい。最初の2日間は、ゲストハウスに泊まって通っていたんです。ボンヘイが起きる時間にあわせて早朝に家に行き、夜寝る前に帰っていった。気を遣ってそうしていましたが、ボンヘイの家族にとっては、私が「こんにちは」と入ってきて「ありがとうございました」と帰るのは、なんかよそよそしく感じるようで。最初から一緒にいるほうが逆に向こうも気を遣わないかなと思い、「明日から泊まってもいいですか」と聞いたら、おばあちゃんもお母さんも喜んでくれました。カンボジア人の中でも、あの3人の生活はすごく貧しい生活をしています。それを本人たちもわかっているので、逆に泊まって同じものを食べてくれて嬉しかったと言ってくれました。
長友 経験上、こうすればうまく近づいていけるのかな、というのがあるんですか?
acid_01 私はけっこう気を遣うほうなので、今ここで撮ったらこの人たちの空気を壊してしまうかもしれないという時は撮りません。もちろん相手にもよります。たとえばキルギスの人達に関しては、日常的にカメラのあるところで生活をしているので、けっこう撮りやすかったですね。でも相手の性格にもよるので、様子を見て、なるべく撮らないでいいところは撮らないようにしています。
長友 カメラマン的な性癖でいうと、「あ、ここ絵になる」と思うと、ついシャッターを押したくなりますよね。
 そこはもう、ぐっと我慢して。もちろんニュースなど、依頼されてする取材で今日だけしか撮影期間がないという現場では撮ります。でも自分の取材に関しては、今日がなくても明日があると、考えます。たとえば誘拐結婚で結婚したディナラという女の子が妊娠したので、1年4ヶ月後に訪ねましたが、その時の写真はけっこう撮るのに時間がかかりました。久しぶりに会ったので私のカメラ音が気になるのではないと想像して、最初の1日は撮らないでいたんです。私も夫婦と一緒の部屋で寝ていたので、朝起きたら、ディナラが起き出して窓際に行き大きくなったお腹を撫でていた。あぁ、きれいだなと思いましたが、今は撮らないほうがいいと、我慢しました。毎朝起きたら彼女はこういうことするのかな、と思って。ところが次の日は、そんなことはしなかった。正直、昨日撮っておけばよかったかなと思いましたが。そうしたら3日後くらいにまた、朝起きて、窓のほうを見てお腹を撫でたので、その時はカシャっと撮りました。
もちろん、待って撮れなかったこともたくさんあります。私が勝手に気にしすぎているだけで、後から、「撮られてもぜんぜん気にならなかったのに」と言われたこともありますし。ただ大家族の場合、家族間で喧嘩が起きた時などは、大人しくしています。イスタンブールでロマの居住区が取り壊されている時期に、まだ取り壊されていない家族に入り込んで、一緒に生活しながら写真を撮っていました。まわりの家が取り壊されてイライラしていることもあってか、子供が8人くらいいるところで喧嘩が始まって。その日は、普通にご飯食べているところとかも撮るのをやめました。そんなふうにその空気を観察して、その上でシャッターを切るかどうかを考えています。
長友 最初のうちはカメラを出さないということは、デジカメだけを持って行動する感じですか?
 デジカメも持っていきません。今は小さいものを持っていますが、1年くらい前までは一眼レフと携帯電話だけなので、写真を撮らない時は何も持っていかない。カメラバックも持ちません。パキスタンみたいな現場では、日本で友達に会う時に持っていくようなショッピングバックみたいなものにカメラをタオルで包んで入れて、外から見たら取材していると分からないようにして。もちろん服も現地のものを着て、なるべく変わった人がいると思われないように気を付けるようにしています。

エディティングの重要性

長友 撮った写真は、選び方、見せ方によって、意味が変わってく場合もあります。どう切り取るかで、逆の意味になることすらありますよね。
 はい。キルギスの誘拐結婚に関しては、今日見ていただいた以外に、5000枚くらい写真があります。ナショナルジオグラフィックの日本版で写真を掲載していただいた時は確か10枚くらいですし、写真展でも多くても30枚くらいなので、5000枚の中でどの10枚、どの30枚を選ぶか。エディティングの段階で選んで、どういう順番にするのかというのも、すごく大事な作業になってきます。もちろんこれまでに誘拐結婚してきた夫婦全員にインタビューしているわけではないので。あくまで私が見てきたものを私の目線で切り取り、私なりに理解したものを伝えられるような写真を選んで、順番も考えて発表しています。

Title Unholy Matrimonyキルギスの誘拐結婚は、すごく複雑なテーマです。私は個人的には、あれは人権侵害だと思って発表はしていますが、結果的に幸せに暮らしている夫婦がいることも確かなので。写真集でたくさん写真を選んで発表できる場合は、誘拐結婚で自殺をしてしまう女性もいれば、幸せに暮らしている夫婦もいますと、いろいろなパターンを紹介しています。ただ新聞で1枚だけ誘拐結婚の写真を発表する場合、必ず載せたいと言われるのが、女性が誘拐されている現場の写真です。確かにニュース的な写真だし、インパクトはあります。私があの写真を撮ったのは取材を初めて2ヶ月目で、その後も私は3ヶ月間キルギスに残って取材をしていました。なぜなら、誘拐された女性がどういう気持ちで嫁いでいき、どういう風に結婚生活を少しずつ受け入れていくのか、その心境が知りたかったからです。できればそちらのほうを伝えてほしいので、1枚だけ新聞で使いたいという時、あの写真は使わないでくださいとお願いしています。あの1枚で、キルギスは野蛮な男がたくさんいる、みたいなイメージがつくられるのは本意ではないので。
長友 アメリカのコラムニストの「ウォームハート、クールマインド」という言葉を聞いたことがありますが、写真を撮るときも、現場ではとにかく寄り添って、と言う感じなんでしょうか。
 そうですね。ただし取材が終わり、写真をセレクトする時は、やはり一歩下がった視点で選んだりします。このシーンは大事だと思って時間をかけて交渉して撮ったものでも、問題を伝えるためにこの写真はなくてもいいと思うものは出さなかったり。だいたい100枚くらいまで、まず絞ります。その絞った中からどの30枚を選ぶか。海外で発表する際は、12枚送ってくれ、とか言われることがあるので、どれを選ぶのかがすごく大変で。ですから信頼している写真家やフォトジャーナリストに相談して、どの12枚を選ぶかちょっと意見を聞かせてほしいといったお願いをよくします。そうすると、私が思ってもみなかった写真が選ばれたりすることもあって。第三者の意見は大切ですね。

ガンビアで教わった取材の基本

長友 パキスタンに行かれた時は、おいくつだったんですか。
 26です。
長友 実際、そういう被害にあっている女性たちと、ほとんど同年代ですね。
 そうですね。ですから、もし私がこういうことをされたらと、いつも思っていました。パキスタンに限らず他のところもそうですけど。
長友 誘拐結婚などを取材に行かれるときなど、自分が誘拐されたらどうしようという心配はありませんでした?
 いろいろな方に聞かれますが、キルギスの男性は、外国人を誘拐するようなことは絶対にしない人たちだということが、取材のなかでわかっていましたので。「もし僕が典子のことを誘拐したら、きっとすぐに日本大使館に通報されて、僕はすぐに捕まるんだろうな」と、冗談で言っている若い男性はいいましたが。
長友 通訳の方はついてくださるでしょうけど、基本的には一人ですよね。若い女性であるということで身の危険を感じたりはしませんか。
 今のところはありません。パキスタンにいる時も、情勢が不安定で、自爆テロもありました。ですから女性だからといって何か被害があるというよりも、治安が悪くて大丈夫かなとか感じたことはあります。逆に女性だから、まわりの人たちも気にしてついてきてくれたり、守ってくれていると感じることのほうが多かったです。
基本的に私は、戦争しているところ、人が撃ちあっているような場所には行きません。ただし自爆テロとかは、自分ではどうしようもないですから。目の前に危険が迫っているのに、それに自分は気づかないでいるのかもしれない、と想像することはあります。少しでもリスクを減らすため、行動パターンを一緒にしないとか、同じホテルに泊まり続けないとか、そういうことは最低限、パキスタンにいる時は気をつけるようにしていました。
長友 ガンビアにいらした時に、そういうことを覚えたんですか?
 ガンビアにいる時は、まったく旅行者の気分でした。新聞社で写真を撮っていたといっても、写真のことを何もわかっていなかったので。2回ガンビアに行き、1回目はニコンのフィルムカメラでしたが、2回目の時はデジタルカメラなのにパソコンも持っていきませんでした。いらないデータを消していって、3ヶ月取材していた。今考えたら、信じられないんですが。
長友 ではそこで、カメラマンとしての心構えみたいなものも――たとえばカメラ構えている時は、目の前のことばかり考えがちだけど、まわりも注意していなくてはいけない、といったことも覚えたのですか。
Noriko_UnholyMatrimony_38 そうですね。ポイントニュースペーパーのガンビア人の記者の人たちに、こういう現場ではこういうふうに動いたほうがいいと教えてもらいました。当時ガンビアでお世話になった記者の一人は、27歳で亡くなりました。もう一人はけっこう政府に批判的な記事も書いていたので、ナイフで襲われて傷だらけになり、次の日にガンビアから出て国外逃亡し、今はイタリアで生活しています。当時ガンビアでお世話になった方の9割は、もうガンビアにはおらず、今ジャーナリズムとはかけ離れたところで生活しています。でも海外に行ったことでフェイスブックもできるようになり、今も連絡をとっています。彼らのことを考えると、私は写真や文章を発表したり、自由にブログに書いたりできることがすごく幸せだなと思うので。だからこそ、取材するという活動は続けていきたいなと思います。

本当に撮りたいものを追いかけて

長友 次のテーマは決まってらっしゃるんですか?
 やりたい取材はたくさんあります。学生の時の卒業論文でナイジェリアの人身売買について書いたので、その取材もずっとしようと思ってきましたし。ナイジェリアに行くんだったら、ガンビアに戻ってあそこの新聞社で、ボランティアでもいいのでもう1回働きたい。今だったらもう少しいい写真が撮れるなと思って。あとは、国外に逃げていった記者たちを訪ねてポートレートを撮るとか、そういうことも最近考えています。
長友 撮ったけれど発表できなかったものはありますか。
 カンボジアのボンヘイは2009年と2011年に取材しましたが、当時はどこにも発表できませんでした。カンボジアのHIVに関してはけっこう取材されている方がたくさんいるので、難しいと言われました。結果的に本を書く際、ボンヘイのことも書けましたが。それがきっかけで、HIV の患者さんの支援をしている団体の方から写真展をしてほしいとお話をいただくなど、今になってやっと発表できるようになりました。
2007年にリベリアに行った時の写真も、掲載が難しいと言われました。リベリアに関しては、今思えばぜんぜん現地の人のことを理解していなかったのに、理解した気になって撮っていたのかなと思います。難民キャンプのすぐ近くに住んでいる人の家にお世話になって、家から一歩出れば難民の方たちが生活しているところで生活しながら撮ったつもりではあったんですけど、やっぱり当時はぜんぜん写真のこともわからないし、どういうふうに取材対象の方とコミュニケーションをとったらいいかということもわからない。とにかくカメラに収めることしか頭になかったのかと、振り返れば思います。
長友 撮りに行くことはできても、発表することが難しい場合もあるわけですね。逆に今後撮りにいくところに関しては、こういうところだったら発表できるだろということを半分計算しながら撮りにいく感じになります?
 それはあまり考えません。たとえば写真を始めるきっかけを与えてくれたガンビアの新聞社の方たちを訪ねて写真を撮るというのは、きわめて個人的な活動なので、発表の場がなかなかないでしょう。でも、発表の場がなかったらなかったでいいと思っています。自分が撮りたいものを撮りに行くのではないと、続かないですから。自分のお金で行っているし、時間もすごく使うわけですし。キルギスに行っている5ヶ月間も、日本でけっこう仕事が入ってきたんですけど、それを全部断って自分のお金で取材しているので、どんどんお金が減ってくるんです。ですから個人的にどうしても取材したいと思うものではないと、できないと思います。
長友 今日は貴重なお話、ありがとうございました。