「表現者たち」 vol.10 渋谷敦志

ボーダーで共存できる世界を目指して

渋谷敦志

構成:石井真弓 企画:佐藤仁重


 写真家として30年間、世界90か国以上を旅して撮影する渋谷敦志さんは、世界に存在するボーダー(境界線)、そして、そこに生きる人々をテーマに撮影してきました。戦争の被害者が身を寄せるアフリカやタイ国境の難民キャンプ、東日本大震災の被災地現場などに足を運び続けながら、心の内面が作り出すボーダーへの気づきがありました。そしてその向こう側にいる人々と、写真というコミュニケーションを通して分かり合い、共存できる世界を作る役割になりたいと語ります。そのためには消費される写真ではなく、見る人の心を揺らす写真を撮ることが大切という渋谷さんの視点をご紹介します。
ウガンダ北部の難民キャンプで撮影した南スーダン難民の少女  渋谷敦志 撮影(2017年)

戦場写真家に憧れて

写真家になろうと思ったのは17歳のときです。戦場写真家・一ノ瀬泰造の『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読み、これだ!と思ったのです。「写真家になりたい」ではなく「写真家になる」と、不思議なほどはっきりと。たまたま父親がもっていた一眼レフカメラ「EOS1000」がぼくの背中を押すかのように語りかけてきました。

「これを手にとって外へ飛び出せ。世界に触れろ」と。ただ当時は、写真への興味よりは冒険心や好奇心のほうが強く、カメラさえあれば、どこにでも行けるんじゃないかという思い込みがありました。
大阪の通称“釡ヶ崎”で、炊き出しの列に並ぶ人びと  渋谷敦志 撮影(1999年)
大学一年生の冬休み中だった1995年、人生のターニングポイントになった阪神・淡路大震災がありました。その頃、戦場写真家を目指していたので、不遜にも被災地の写真で世に認められたいという欲望に駆られ、被災地に飛び込みました。ところが、現場でカメラを鞄から出すことさえできなかったのです。苦難のただなかにある人間にカメラを向けることがいかに難しく、恐ろしいことかを思い知らされたのです。帰路につきながら、写真を撮る以前に人としてもっと成長する必要があると痛感しました。

 

ブラジルで見つけた写真の道

もう一つのターニングポイントとなる出会いは、ブラジル人写真家、セバスチャン・サルガドの作品世界との出会いです。大学2年の時、大阪でサルガドの写真展 『WORKERS 人間の大地 労働』を見たときの衝撃は、いまもありありと思い出すことができます。写真というメディアが持つ真の力に初めて触れた原経験でした。その翌年ブラジルに渡航し、日系ブラジル人で移民や国籍法の専門弁護士、二宮正人先生の事務所で働き、移民や難民の問題に関心を深めることができました。そしてブラジル各地を旅して写真を撮りました。

 

ブラジルのセントロ地区。留学時代に勤務していた場所  渋谷敦志 撮影(2014年)

リオデジャネイロにある最大級のファヴェーラ(貧民街)“ホシーニャ”  渋谷敦志 撮影(2015年)
サルガドからのもう一つの影響は「国境なき医師団」との関わりについてです。 彼がフランスの医療組織と協働して、15ヶ月かけて干ばつや飢餓の地域を取材したことを、ブラジルの新聞記事で知りました。報道写真と人道支援を組み合わせるスタイルでの仕事の方法。「撮るのか」「救うのか」という報道写真につきまとうジレンマを乗り越えるヴィジョンをイメージすることができたのです。日本に帰国後、「国境なき医師団」について調べると、なんと日本支部がすでにあり、しかもフォトジャーナリストをコンクールで募集していました。それに応募し、大学卒業してすぐに受賞できたのです。就職活動はしませんでしたが、そこを目指して写真にとりくんだ日々がぼくの就活でした。
“ホシーニャ”の路地  渋谷敦志 撮影(2017年)

エチオピアの山岳地帯で聞こえた声

「世界に触れるような生き方をしたい」――。
1999年、大学卒業と同時にフリーランスの写真家として活動を始めたぼくは、エチオピアに向かいました。北部の標高3000メートル近い山岳地帯で国境なき医師団の活動を取材するためです。
エチオピア高原に暮らす人びと  渋谷敦志 撮影(1999年)
ラリベラという岩の教会群で知られる町から5日間、歩いて移動しました。疲労困憊で写真どころではない。そんな状態でようやく目的地の村にたどり着いたのですが、そこには白い衣をまとった人びとが、雨に濡れて寒さに震えながら到着を待っていたのです。300は下らない数の人がいました。その群集に分け入って、無我夢中でシャッターを切ったのです。

エチオピア、3日かけてやってきた父と子  渋谷敦志 撮影(1999年)
降りしきる雨のなか、山小屋で雨宿りする人びとを撮影していると、幼い子どもを抱いた男性がカメラの前で立ち止まりました。3日かけて歩いて来たといいます。ファインダー越しに見る顔は凛とした佇まいで、顔に刻まれた深いしわが、過酷な環境で生き抜いてきた歳月を物語っていました。こちらに迫ってくるようなむき出しの生にたじろぎながらも、食い下がるようにカメラを向けました。すると、「生きたい、生きたい」という肉声が聞こえてきたのです。生への渇きを強烈に感じました。その渇望は、人間の苦しみの根源なのか、かけがえのない他者とつながろうとする意志なのか。そこで写真を撮るうちに、この土地で生き抜くことの過酷さと、そこを旅する自分の身体的な過酷さとがごちゃまぜになってきたのです。どこまでが自分の疲弊でどこからが世界の疲弊なのか、その境目があいまいになっていた時、自分が撮ろうと思っても撮れなかった何かが写った気がしたのです。

内戦下のアンゴラで見た人間の尊厳

戦場写真家の夢は捨てられず、内戦の地アンゴラに取材に向かいました。2000年の内戦時と2002年の終戦直後の二度訪れました。内戦と飢餓。不遜ながら、自分が望んだモチーフがそこにあったのです。アンゴラでは1975年の独立以来、旧ソ連 とキューバが支援する政府軍と、米国と南アフリカが支援する反政府武装勢力のあいだで25年以上、泥沼の内戦が続いていました。2002年の終戦後も400万人以上が国内外で過酷な避難生活を強いられ、極限の貧困が続いていました。
アンゴラ、反政府ゲリラに腕を切断され、精神を病んだ男性  渋谷敦志 撮影
難民の多くは、戦闘や地雷で人が近寄れない「空白地帯」に隔離され、置き去りにされていました。国際社会に知られず、人道支援も届かない間、飢餓が人々を襲っていました。アンゴラにはまさに自分が写真家として見たかった、撮りたかった現実がありましたが、同時に自分がもっとも見たくない撮りたくないものだと知ったのです。一番つらかったのは、「国境なき医師団」が運営する病院で、毎日のように小さな子どもが死んでいくのを見ることでした。静かに目を見開いたまま絶命するんです。その目をカメラ越しに覗き込みました。すると、「お前は何者なんだ」「お前に写真を撮らせるためにここにきたのではない、生きるためにここにきたのだ」と問い詰められるような感じがして写真を撮れませんでした。いや、実際少しは撮りました。撮ってなんぼの仕事です。感情のスイッチをオフにして機械のようにシャッターを押し、割り切ってやろうとしたのも事実です。あちら側とこちら側に境界線を引き、痛い思いをしないよう、自分を安全圏におくのです。でも、魂の奥のどこかが損なわれる感じがありました。写真家である以上、当事者にはなれませんが、限りなく近づこうとはします。ロバート・キャパは言いました。「写真が良くないとすれば、近づき方が足りないのだ」と。なんと困難なことでしょう。それでも、不安定な場で挫折を繰り返すことが、人として意味のあることのように思えたのです。
アンゴラ、ジョゼフィーナ・ディンカさんと8ヶ月の赤ちゃん  渋谷敦志 撮影(2002年)
2回目の訪問時、「空白地帯」に入ることができました。栄養治療センターに瀕死の人たちがトラックで運ばれてきました。ほとんどが女性と子ども。大人は立っているのもやっと、子どもは力なく地べたに座り込んでいました。まさに餓死寸前の生きた屍でした。国境なき医師団の看護師がつぶやきました。「ここにいる人たちは強い人。弱い人たちはもう死んでしまったから」。その一人、ジョゼフィーナ・ディンカさんという23歳の女性に出会いました。7歳のトーマス君と、8か月の赤ちゃんジョゼ君も一緒でした。ジョゼ君の体重は3.2キログラムで健康児の半分以下、トーマス君の体重も16.2キログラムしかありません。母乳が出ないと身ぶりで訴えるジョゼフィーナさん。それでもジョゼ君はおっぱいに吸い付いてあきらめようとしない。そんな母子の必死な姿をファインダー越しに見ていると、人間という存在はとても弱いけど、強いと素直に思えました。矛盾した言い方ですが、人間の精神をぎりぎりのところで守っている何か、尊厳と呼ばれるものかもしれませんが、それに触れているような感覚がありました。彼女の強いまなざしが、人びとを長く苦しめてきた不条理の真実を語る証言となってほしいと、祈るようにシャッターを切りました。

 

タイ・ミャンマーの国境にて、心の扉をノックし続ける

2007年からミャンマーのことを取材し始めました。日本人ジャーナリストの長井健司さんが射殺されたことがきっかけです。今、ぼくがもっとも心配な場所は、ミャンマーとタイとの国境地帯です。2021年2月に国軍がクーデターを起こし、権力を奪取したからです。ミャンマーに関して、アウンサンスーチーさんや民主化運動については比較的よく報道されますが、もう一つ、見落とされがちだが忘れてはならない大きなことがあります。少数民族の存在です。
タイ国境、ミャンマー・カレン州の山奥にある難民キャンプで出産した女性  渋谷敦志 撮影(2010年)
ミャンマーには130以上もの民族があると言われています。人口の7割がビルマ民族で、ほかに主に7つの少数民族があり、それら少数民族の名を冠した州が7つある多民族国家です。仏教徒が多いビルマ民族が中心的な存在で、ミャンマーがイギリスからの独立以来、少数民族や宗教的マイノリティへの抑圧がずっと続いている状態です。多くの少数民族が難民として、隣国や国内の山中のジャングルを逃げ回って暮らしています。この「もう一つのミャンマー」の姿は、以前から関心を持たれにくかったのですが、差別や暴力に苦しみ、故郷を追われて生きるとはどういうことか知りたい。難民一人ひとりの声を国境線上で聞いてみたい。そんな思いからタイとミャンマーの国境線を巡る旅を始めました。
タイ、難民キャンプの丘の上に立つ少女ルル  渋谷敦志 撮影(2008年)
ここではルルという女性のこと伝えたいと思います。2008年、彼女が10歳の時に初めて写真を撮りました。以来、2、3年に一回のペースで会っています。シャイな人で控えめ、欲がない。タイで何かやりたいことや行きたい所があるかと聞くと、「何もない」とにべもないのです。生まれながら難民だったルルは、生まれたら自動的に与えられる様々なもの――国籍や市民権、グループへの所属や移動の自由など――が奪われているステートレスな存在なのです。新たなホームを持つ自由も与えられず、「nowhereな人」ともいえます。一方のぼくには、ルルが持たないものが「全部ある」。たまたま日本人の子どもとして生まれただけで自動的に国籍を付与され、日本人として生きています。“最強”のパスポートを持ち、ほとんどの国に自由に移動できます。なのに、さも自分の力で生きている気になっている自分とは何者かということに無自覚、無関心だから自分以外の誰かを周縁に追い込み、目に見えない存在にして、知らずに境界線を引いてしまっているのだと思うのです。ルルと何度も会うことで、彼女は「難民」とひとくくりにされる存在ではなく、固有の人生を生きる愛おしい個人になっていきました。それでも、彼女とのあいだには埋めがたい隔たりがあるのは確かです。だからこそ、「あなたのことが知りたい」と心の扉をノックし続けたいと思います。ノックの方法は人それぞれだと思いますが、ぼくの場合はそれが写真だったのだと思います。

 

福島県南相馬での出会い

東日本大震災発生後に訪れた福島県の南相馬で、上野敬幸さんという人との出会いがありました。大震災発生当初、正直にいうと、ぼくの関心は津波より原発事故と放射能の問題でした。「現場に行って自分の眼で確かめたい。でも、目に見えない放射能は怖い。しかし、もし今何もしないのならば、自分はこれから先に何をするにしても、意味がなくなるんじゃないか」そんな愚直な思いがぼくを福島へと駆り立てました。原発を目指して車で移動する途中で、偶然立ち寄った海辺で出会ったのが上野さんでした。震災3週間後のことでした。
福島県南相馬市の萱浜(かいばま)にて  渋谷敦志 撮影(2012年)
4月5日、原発へ少しでも近づこうと車で仙台を出発しました。福島県に入り、南相馬市の病院あたりでたまたま「萱浜」(かいばま)という標識が目に入ったのです。浜という一字を見て、「このあたりの海はどうなっているんだろう」とふと思い、海の方へ進みました。ある線を境に家並みが途切れ、視界が開けて海に出ました。そこが萱浜でした。その時、その前に陸前高田や気仙沼で見た光景と重なり、津波にすべてを押し流された場所であるという厳しい事実にはっと気づいて、胸がふさがれたのでした。世界の終わりの光景、世界のどこでもない場所にポツリと投げ出されたような気持ちでした。そこには人間が1人もいません。どこにいったのだろうと、何を撮るともなく、がれきに向けてシャッターを数枚切ったその時、二人の男性が歩く姿を見つけ、近づき、勇気を出して話しかけました。「何してるって? 見りゃわかるだろ。人を捜してんだよ」。外部から来たぼくを敵と見なすような激しい怒りに満ちた目でした。その時、カメラは人と人を絶縁するただの無機物の塊でしかないと感じたものでした。ひと言わびて引き下がろうとしたのですが、その人が「で、どっから来たの? 東京?」と逆に切り出してきた。それが上野さんとの最初のコミュニケーションでした。
福島県、萱浜の消防団の人たち。下段真ん中が上野さん  渋谷敦志 撮影(2011年)
上野さんは、津波で母親と子ども一人を失ったこと、父親ともう一人の下の子どもが行方不明であること、原発が爆発して、住民が避難する中、消防団員の自分は、残って行方不明者を捜し続けていることなどを淡々と話してくれました。その後、日が暮れ始め、捜索活動を終えた消防団員らが上野さんの自宅前に戻ってきました。そこで、突然、上野さんから言われたのです。「おれたちの集合写真撮ってよ。記念写真。おれの家の前で」。震える指でシャッターを押し、構図を整えながら撮影しました。続けて7、8枚、撮ったでしょうか。ファインダーの中をじっくり見て、人の顔に目を凝らすと、男たちの眼がなんとも澄みきった感じがして、はっとしました。何かが写ったと。そんな手応えにぼくは身震いしました。結果的にですが、この時の写真は、あの時あの場所で「地獄」を共に生き抜いた男たちの唯一の記録でした。その一枚の写真が縁となって、上野さんとの関係が始まりました。その縁は今日も大切にしてます。父親と息子はまだ見つかっていません。「見つけ出して早く抱きしめてあげたい。どういう状態であっても、抱きしめて、謝りたい」。それが上野さんの1番の願いとなっていました。

 

カルペ・ディエム – 今を懸命に生きる

やがて、上野さんは、「涙しかなかった場所」を、「みんなが笑いあえるところ」にしようと活動を始めました。それが生きる支えなのかと彼に聞くと、「生きたいとは思っていない」と言うのです。「生きているから、ただそれだけ。生きているから体がある。生きている人がやらなければならないことがある。それだけ」。
福島県大熊町で行方不明者の捜索活動をする上野さんと仲間たち  渋谷敦志 撮影(2015年)
今日あるものが明日あたりまえにあるとは限らない。上野さんの一日一日の営みは全部、「今を生きる」ことなのだと教えてもらいました。その後、上野さんはぼくらやボランティアを、仲間と呼んでくれるようになりました。でも、どこまでも「私」という拠点を持つ者同士が、「私」と「あなた」でつながっているだけ。「私たち」にはなりえない。越えられない境界線がある。それでもその線上に踏みとどまり、あがくことで見えてきたことがあります。分かるということは分けること。なら、分かりえない何かとまなざしを交わし続ける場に、「共にいられる世界」を求めていく。写真家として、そういう役割を生きることもできるのではないかと気づいていったのでした。

「Carpe Diem(カルペ・ディエム)」。今日という日を摘み取れ。古代ローマの詩人ホラティウスの言葉です。その日がどんな一日であっても、今日を懸命に生きる。それは、上野さんの「今を生きている、それだけ」という言葉とオーバーラップします。その大切さを忘れないために、もうしばらく写真を撮っていきたいと思います。世界を見失ってしまわないように、人間らしさを失ってしまわないように、自分なりの不断のたたかいを続けていきたいと思います。

 

内面のボーダーを乗り越えるために写真を撮る

2021年、それまでの仕事を網羅して見てもらう写真展『GO TO THE PEOPLES 人びとのただ中へ』を、キヤノン・ギャラリーSで開催しました。テーマは「ボーダーランド」でした。本来、境界線:ボーダーというのは、人と人が交わる広がりのある陰影のある領域:ランドなのに、人と人をわけ隔てる線:ラインになってしまっている。そこで、国と国、人と人とを引き離す線を横断して未知の世界や自分以外の他者に触れ、コミュニケーションを重ねることで寛容性や想像力、よりニュアンスある領域を押し広げる。それこそがぼくの写真のメインテーマでした。
バングラデシュ、機織り工場で働く子ども  渋谷敦志 撮影(2009年)
ボーダーの問題は内面の問題でもあります。乗り越えるべき境界線は自分の内にこそ引かれていることに気づいていったのです。内面のボーダーを克服する鍵は、他者との関わりにあります。そこにはコニュニケーションが必要であり、そのための写真なのです。写真で何か心を揺さぶられたとき、人はコミュニケーションをしているのです。人の心を揺り動かす何かがある写真、それがいい写真なのだと信じています。逆に何も感じるものがなければ、その写真はただの消費される映像でしかありません。その方法や目的を30年以上、自分なりに手探りしてきました。

 

第4回 笹本恒子写真賞を受賞

南アフリカのカムシュシュワの小学校  渋谷敦志 撮影(2013年)
これまでの仕事を評価していただき、2021年秋、第4回笹本恒子写真賞を受け、新宿のアイデムフォトギャラリーシリウスで受賞記念写真展をさせていただきました。 展示に際して意識していたテーマは、「隔離の中の生」です。突然、未知のウイルスのパンデミックが世界中で起こり、感染拡大から2年以上経過したいまも、人と人 が分け隔てられています。そんな暗澹たる状況を、ある意味では先取りする形で撮っていたと、後付けですが、いえなくはないテーマに長年取り組んできました。
ボコハラムに襲われ、避難生活を送る女性。ナイジェリア・ボルノ州のマイドゥグリにて  渋谷敦志 撮影(2019年)
カメラを手に、勇気をもって外の世界へと踏み出し、国境をこえて移動し、人と出会い、語らう。写真家はそうやって世界に触れ、ほかでもない「あなた」と直に対面するのです。そこで得られる最も大切なものは生身の経験です。それをコロナ下において原点に据えなおす。意思を持って人びとの中に飛び込むことの意義をあらためて問いなおす。そんな展示になればと心がけました。あらためて感じるのは、世界を移動する行為そのものが、自分が写真を始めた動機であり、写真を続ける理由だということです。今はただ1日も早く、いまここからカメラをもって飛び出したいと願うばかりです。

 

かつて虐殺を逃れた難民が歩いた道を自転車が駆け抜けた。ルワンダ、キガリにて  渋谷敦志 撮影(2007年)

 


【プロフィール】

渋谷 敦志(しぶや あつし)

写真家。1975年大阪生まれ。高校時代に一ノ瀬泰造の本に出合い、報道写真家を志す。大学在学中、一年間ブラジルの法律事務所で働きながら本格的に写真を撮り始める。1999年にホームレス問題を取材したルポで国境なき医師団主催MSFフォトジャーナリスト賞を受賞。それをきっかけにアフリカ、アジアへの取材を始める。

著書:『今日という日を摘み取れ』『まなざしが出会う場所へ―越境する写真家として生きる』『回帰するブラジル』『希望のダンス―エイズで親をなくしたウガンダの子どもたち』『みんなたいせつ―世界人権宣言の絵本』など。 第4回笹本恒子写真賞受賞(2021年)。

2022年8月に、世界の子どもたちがひたむきに学び生きる姿、その社会背景を写真とともに紹介する「僕らが学校に行く理由」(ポプラ社)を出版予定。